「ベンスン怪奇小説集」  
国書刊行会

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 ベンスン怪奇小説集   八十島薫・訳 (国書刊行会/1979年9月10日初版)

 怪奇小説の黄金時代・20世紀初頭のイギリスの作家、エドワード・フレデリック・ベンスンの怪奇小説短編集。1928年発表の『幽霊譚集 Spook Stories』から抜粋された10篇の幽霊屋敷譚が掲載されている。
 解説は荒俣宏氏。

 この怪奇短編集には様々なヴァリエーションの「幽霊屋敷」や「呪われた場所」が登場してくる。
 1920年代イギリスの海岸、森などの美しい自然描写がふんだんに盛り込まれていて、ゴシック・ホラーとは一味違った味わいがある。それぞれに登場してくるいわくつきの物件はこれ見よがしな怪奇ムードを漂わせていたりはせず、むしろ、美しい自然に囲まれた心落ち着く快適な居住地として登場人物を招き入れる。また、シーンの描写が巧みでイメージがヴィジュアルに浮かんでくるのもベンスンの作品の特徴だ。私が個人的に好きな雷雨のシーンが多いのも嬉しい。
 「夏の夜に語られる怪異譚」的な怪談の愉しみを味わえる短編集。ひと気の少ないリゾート地のベランダなどで夕闇の気配を感じつつ読めたら最高だ。


■ 和 解   Reconciliation
 ケンブリッジ大学の学生だった主人公は、友人のヒュー・ヴェロールからの、8月を郷里のガースにある父の屋敷で一緒に過ごそうという提案に乗る。ガース屋敷は17世紀初頭に建てられた、周囲の景観ともどもすばらしい屋敷だった。しかし、ヒューによるとその屋敷は、ロンドンで成功を収めて帰ってきた彼と同名の祖先が、博打好きだったガース家最後の領主フランシスをカード賭博で負かして手に入れたといういわくのある屋敷なのだった。百年ほど前にはその領主の幽霊が屋敷内を徘徊していたという。だが、それも昔の話で、二人は快適で満ち足りた夏休みをその屋敷で過ごす。そんなある日、海でのひと泳ぎの帰り道、二人がどしゃぶりの夕立の中を歩いていると、屋敷をじっと見つめている一人の男を見かけた。どこかで見覚えのあるその男の顔… その男は屋敷の回廊にかかっているガース家の最後の領主フランシスの肖像画に瓜二つだった。

 この短編は、冒頭のガースの美しい自然描写にまず惹きこまれる。因縁のある「幽霊屋敷」であるガース屋敷もその敷地も実に居心地よいところとして描かれていて、主人公たちの「だれに遠慮することもなく良心の咎めを受けることもなく/充足感に浸りながら思いっきり怠惰な生活をする」さまが実にうらやましい。現れる幽霊も二人に危害を加えるわけでもなく、主人公は好奇心の混ざった戦慄を覚えるが、友人のヒューは全然気にとめない。その幽霊の落ち着いて穏やかな印象はジェイムズの「エドマンド・オーム卿」に登場する幽霊を思い起こさせる。
 物語が展開し、結局ヒュー・ヴェロールは経済的な問題からその屋敷を貸家にせざるをえなくなる。やがて美しく魅力的な一人娘を連れて屋敷の下見に現れた借り手の紳士の名前と顔は…

 「和解」というタイトルとともに読後感もさわやかな珍しいタイプの幽霊屋敷譚。ゴシック・ホラーの原点「オトラント城」の因縁部分のファンタジックなニュー・ヴァージョンという見方もできそうだ。


■ 顔   The Face
 ラヴクラフトが『小説における超自然』の中で絶賛した、ベンスンの代表的短編。

 美貌の主人公へスター・フォードはロンドンで幸せな家庭生活を送っていた。しかし、暑さの続く6月、彼女は少女時代に繰り返し見ていた悪夢に再び悩まされ始める。それは必ず2夜続けてみる夢で、最初の夜は海岸の高い崖の上にある小道を登っていく夢である。あたりは黄昏時のように薄暗く、誰かが彼女を待っているというせかされる気持ちで先を急ぐ。やがてトンネルのような繁みを抜けると、そこには墓地の中に建った教会の廃墟が現れる。
 そして次の夜の夢では、彼女は夕闇の中、潮の引いた砂浜にいる。そこから見上げる崖の上には昨夜の夢の教会の廃墟が見える。彼女は恐怖を感じて逃げ出そうとするが足がすくんで動かない。やがて彼女の眼前に青白く光る不気味な男の「顔」が現れる。その顔は微笑みながら「おまえがもっと大きくなったら迎えにゆく」と彼女に話しかける。
 10年ぶりに見たその悪夢は明らかに時間が経過していた。崖の縁は海に侵食されて教会の本体は下の砂浜に崩れ落ち、塔の部分を残すのみだ。さらに、男の顔の言葉も変わっていた。「もうじき迎えにゆくぞ」…
 自分を元気づけ、夢を忘れようと友人と一緒に肖像画展に出かけたヘスターだが、そこで彼女が目にしたヴァン・ダイクの描いたサー・ロジャー・ワイバーンの肖像画はあの「顔」に瓜二つだった。

 穏やかに続いていた生活の中に恐怖の兆候が現れ、次第に主人公をその恐怖の核心に追い込んでいくという典型的な展開。幻想的な恐怖感が高まっていく崖と廃墟、砂浜の描写が実に魅力的だ。ヘスターの身を襲った恐怖は、いわれなき理不尽なものであるがゆえに一層恐ろしい。子供の頃の悪夢が大人になって現実化していくという恐怖は怪談映画の傑作「女優霊」(中田秀夫・監督)の原型とも言える。クライマックス・シーンの映画的なほどビジュアルな描写など、まさに傑作。


■ スピニッジ   Spinach
 主人公の霊媒師兄妹のコミカル・タッチなやりとりも軽妙な、作品集の中でも異色の快作。

 本名には「霊的な連想が欠けている」ので霊媒師兄妹は「ルードヴィック&シルヴィア・バイロン」という別名を名乗っている、という前振りからして楽しい。交霊会のスケジュールで多忙な日々を送っていた二人は、熱心な交霊会出席者のサプソン夫人がルードヴィックの指導霊アステリアから聞き出した休養を進める言葉に従って、サプソン夫人の持つ海辺の別荘で2週間ほどの夏の休暇を取ることにした。それが夫人の仕組んだ画策であったことも知らず…。
 別荘でルードヴィックは心霊写真撮影実験、シルヴィアは自分の指導霊ヴィオレッタとの交信の上達のための練習を始める。その最中、二人はトーマス・スピニッジと名乗る霊からの交信を受け、そしてルードヴィックはそのスピニッジらしいハンサムな若い男の顔が写った心霊写真の撮影に成功する。スピニッジの霊は言う。「あなたの手助けが欲しい。思い出すことができない…わたしはとても不仕合わせだ」 
 これこそ自分達の名声を上げる絶好の機会だと思ったルードヴィックは、休暇もそっちのけで事件解明に乗り出す。

 別荘で兄妹が行う霊媒についての議論が興味深い。シルヴィアは霊能力は潜在意識の現われやテレパシーではないかと言うのだが、結局そういう疑問を抱いていたシルヴィアが兄を差し置いて実際にサプソン夫人の別荘で死んだ男の霊との交信することになる。そしてその別荘で起こった事件を解決に導くのだ。
 また、死んだ人間の霊が、来世で生前に殺した人間の体とりつかれてしまうという設定も面白い。もちろん、海辺のリゾート地の描写も相変わらずの心地よさ。その描写を読んでいるだけで一種のリラクゼーション効果を覚える。


■ バグネル・テラス   Bagnell Terrace
 ロンドンの閑静な住宅街バグネル・テラスを舞台にエスニックで謎めいたムードが漂う作品。

 主人公が10年間暮らしてきたバグネル・テラスの通りの突き当たりに、他の家では花壇になっている正面部分が四角い張り出し部屋になっている家がある。この家には男がただ一人住んでいるのだが、彼がどういう人間なのかは近所でも全くの謎だった。主人公は名前も知らない彼をナボテ(下記「ナボテのぶどう園参照」)と呼んでいた。
 ある冬、主人公はエジプトに数ヶ月滞在し、帰国した翌日にナボテの家の隣家に住む友人のヒューを夕食に招いてエジプトの土産物を見せる。その中に瑠璃製の猫の彫像があった。とても気に入っているのだが、どこで買ったのかどうしても思い出せない不思議な品物である。一方ヒューは、主人公の留守中にあのナボテの四角い部屋から夜になると風変わりな音楽が聞こえてくるようになったという話をする。
 その音楽は主人公も耳にするようになるが、耳を澄ますと聞こえなくなり、本当に聞こえていたのかわからなくなる不思議な音楽だった。また、ある朝気が付くと通りからナボテが窓辺に置いてあったあの瑠璃製の猫を満足げに覗き込んでいた。
 その年の5月になると、ヒューからナボテの家が売りに出ているという知らせがあった。以前から同じ住宅街に広い部屋のある家が欲しいと思っていた主人公は一も二もなくその家を買い取る。家は以前人が住んでいた形跡も無いほどに片付いていて、新築同様だった。永年の夢であった家をわがものにすることができた主人公は嬉しさに浸る。

 ひたひたとかすかな足音をたてながらゆっくりと恐怖が忍び寄ってくる。張り出し部屋に漂うエジプト寺院を連想させる奇妙な芳しい匂い。雨上がりの歩道についていく足跡。壁龕から落とされるペルセウス像。見えない何者かいる気配。そしてついに正体不明の何者かが主人公とヒューを襲う。

 異教の悪魔がロンドンに出現する、とでも言うべき怪異譚。その点ではオカルト映画の金字塔「エクソシスト」へと通じるものがありそうだ。現代の私達には恐怖のインパクトが足りない感じもするが、逆に恐怖過剰でない部分に雰囲気がある作品だとも言える。


■ 空き家の話   A Tales of an Empty House
 友人と会う予定地に向かう途中、ひどい雨に降らた上に悪路で自動車がパンクし、やむなく目的地手前のリディングトンという村のホテルに一泊する主人公。雨上がりの翌朝に見てみると、そこは実に風光明媚な海辺の村であった。すっかり気に入った主人公はその日友人のジャックと会う予定の場所をその村に変更し、運転手を駅まで車で迎えに行かせる手筈を整える。
 友人が到着するまでの間、主人公は海岸線まで続く広大な干拓地へと散策に出かける。人ひとり見かけない、まさに孤独のパラダイスだ。そしてひとしきり泳いだあと、砂浜からの帰り道の砂州で煉瓦造りの小さい家を見つける。それは人の住まない廃屋だったが、その外で休息していると、不意に中から片足を引きずるような足音が聞こえてきた。無人の家だと思っていた主人公は慌てて家を後にする。そのあとで、対岸から左脚を引きずって歩く男の姿をその家の戸口に見かける。
 ジャックの到着後、潮が満ちて干拓地が一面の水面となったはるか彼方に見えるその家の話題をしていると、ホテルのポーターがあの家にはここ数年、だれも住んでいないと言う。それでは昼間見たあの男は誰だったのか?

 旅先の心地よい孤独感が恐怖にすりかわる。ある時には姿が見え、またある時には姿の見えない悪意を持った存在が現れるところは「バグネル・テラス」と同じ。また、広大な干拓地の植物や鳥の声の細かな描写で、ベンスンがいかに自然愛好家であったかがここでも伺われる。激しい夕立に会い、雨宿りに飛び込んだ空き家の中で聞く奇妙な口笛、近づいてくる片足をひきずる足音。暴力的な霊の力に襲われ、かろうじて逃げ出す二人。主人公はロンドンに帰ってからその空き家の因縁を知ることになる… オーソドックスなプロットの怪談話ではあるが、ベンスンの優れた語り口で味わい深い作品になっている。


■ ナボテのぶどう園   Naboth's Vineyard
 法廷弁護士のレイフ・ハチャードは、夏の長期休暇を過ごす海辺の町スカーリングにあるテルフォーズ・ハウスという屋敷を手に入れたくて仕方が無かった。広い庭園を持つその屋敷は晩年をゆったりと過ごすにはまたとない物件なのだ。しかし、その所有者であるプリングル夫人は全く人付き合いをしない人間で、屋敷を手離すつもりも全くなく、半ばあきらめざるを得なかった。ただ、ハチャードはそのプリングル夫人の顔にどこかで見覚えがあるような気がするのだった。
 やがて永年の弁護士の仕事による疲れから引退を意識し始めたハチャードは、テルフォーズ・ハウスへの執着が再び強くなってくる。そんなある日、長らく外国に出ていたプリングル夫人の主人が帰国して屋敷に住んでいるという話を不動産屋から聞く。まだ屋敷への愛着が強くないであろうその主人に直接掛け合えば、あるいは望みがあるかも知れないと考えたハチャードはテルフォーズ・ハウスに向かい、呼び鈴を押した。そして、そこに現れた男は…

  「ナボテのぶどう園」とは『旧約聖書』列王記の故事から転じた「是が非でも手に入れたいもの」のこと。ハチャードにとってのテルフォーズ・ハウスがそれなのだが、サマリアの王アハブの妻イザベルがエズレルびとナボテを策略を用いて殺し、そのぶどう園をアハブのものとしたように、ハチャードはやや強硬な手段をもって屋敷を入手しようとする。それが恐ろしい結末を生んでしまうことになってしまうのだ。

 ここでも舞台になるのは海辺の別荘地の美しく住み心地のいい屋敷である。そして平穏な生活の中でどこからか恐怖の足音が聞こえてくる。その恐怖感は「バグネル・テラス」「空き家の話」よりもこの作品の方が強い。読者はすでに因縁が分かっているからだ。その恐怖の忍び寄ってくる描写も、一度振り払ったかに見えた恐怖感が再び現れたときの絶望的シーンも実に見事に描かれている。


■ ホーム・スイート・ホーム   Home Sweet Home
 夏の午後、主人公は海に近い駅に降り、妹のマージリーが夫の休養のために夫婦で過ごしている「アカマツ屋敷」に向かう。そこで会った妹夫婦との会話の中でその屋敷の怪異な現象の断片が伺われる。それは見事なバレンスタインのグランド・ピアノが置いてある広い部屋にまつわるものであった。そこは夏だというのに妙に肌寒いのである。妹の話では家の中に自分達以外の誰かがいる気配を感じることもあるという。
 主人公はそのグランド・ピアノの部屋で回想記を書く仕事に取りかかるが、やはり部屋の中に誰かがいるという感覚がして仕事に集中できなるなる。ついピアノの方に目をやってしまうのだ。するとそのとき、鍵盤が見えない指でおさえられるようにいくつか動き、主人公は慄然とする。そこへやってきた妹の夫ウォルターもピアノの鳴る音を聞いたという。
 翌日、その土地の隣の地名コルトハムが、1年程前に残酷な殺人事件のあったところであることを思い出した主人公は、その現場となった家を屋敷の庭師で管理人であるデントンに尋ねる。彼は貸家になっている壊れかけたような家を指し示した。殺された女性の名前はミス・エラショウだ。そして、マージリーがピアノの部屋の戸棚で見つけた書類の中からミス・エラショウ宛の手紙が出てきて、この「アカマツ屋敷」の所有者が彼女だったことがわかる。
 
 この作品も冒頭4ページの駅から屋敷までのリゾート描写が心地よい。殺人犯が報いを受ける?という殺人事件にまつわる幽霊譚だが、ミステリーのプロットとしては複雑なところが無く、やはり怪談として楽しむべき作品だ。グランド・ピアノという小道具がムードを高めている。
 マージリーが「ホーム・スイート・ホーム」の楽譜を見つけ出してピアノを弾いたところから物語はクライマックスに向かう。主人公は夕食の来賓であったバード氏を送りがてらコルトハムの殺人事件の話を聞く。そしてその夜が更ける頃、例の部屋から「ホーム・スイート・ホーム」を弾くピアノの音が聞こえてきた…


■ 鳥の啼かぬ森   And No Bird Sings
 姿の見えない正体不明の怪物が登場するという点で実に私好みの超自然怪異譚。タイトルからして暗示的で秀逸である。
 この作品でも冒頭で駅に降り立った主人公が、招かれた友人の家に徒歩で向かう。草原を通って森を抜けた先にその友人ヒュー・グレンジャーが夫婦で住んでいる屋敷があるのだ。まさに祝福されたような晩春の美しい日。しかし、屋敷の手前の森に入っていくと、様相は一変する。そこは嵐の前の冬の日のように陰鬱で、鳥の姿も見えないし、鳴き声も全くしないのだ。ただ、何かの生き物忍び足で歩くような音だけがする。そのときに臭う不快な臭気。
 その森の奇怪さはヒューも常々感じていたものだった。彼の飼う愛犬たちも決して森に入ろうとしない。それどころかその森の中では血がすっかりなくなっているウサギの死骸がいくつも見つかるのだ。主人公は正体不明の吸血性の何か森の中にいて、その気配で鳥も犬も近づこうとしないのだと言う。
 確かに二人して森の中に入ってみてもやはり一羽の鳥も見つけられない。悪夢のような不安感に襲われた主人公は、そこに邪悪な何ものかがいるということを認めざるをえなかった。さらに二人して木立の奥になにか薄ぼんやりとしたものが揺れているのを目撃する。
 ヒューは森の中にいるものが何であるにせよ、退治してしまわなければならないと決断する。二人はヒューの妻のデイジーには知らせず、それぞれが散弾銃を持って一緒に森を探索することにした。

 「ホーム・スイート・ホーム」をそのままなぞったような冒頭は、好きなミュージシャンが違う曲でおなじみのフレーズや曲展開を聞かせてくれるような感じだ。魅力的な展開そのままに、今回は海辺へではなく森へ向かうというヴァリエーションの違いが楽しめる。実際、行き着く先のムードは前作とはかなり異なる。
 「なにかの拍子にひょっと天の楽園からこぼれて地上にしたたり落ちることのある黄金のように輝かしい日」など、ベンスン独特の表現が心地よい。それがゆえにまたその後の恐怖感が引き立ってくる。雨の降りしきる中、森に足を踏み入れる二人。ベンスンの過不足ない細やかな描写に従って高まっていく恐怖。恐怖の快感とはこのことだ。


■ コーストフィン   Corstphine
 友人フレッド・ベネットが主人公宅に泊まりにきて、彼の奇怪な体験談を話して聞かせる。ベネットが別の友人の家でチェスをしているときに、ゲームに集中した意識の中でほんの一瞬の間に見た、夢のような幻覚の話だ。
 フレッドはとても薄暗く蒸し暑い午後にある駅に降り立つ。そこで乗り換えの為に1時間待たないといけないということがわかっている彼は、何かが自分を待っているような予感がして駅の近くを散策してみることにする。不思議なことに街の中には人っ子一人、猫一匹いない。生き物の姿を何一つ見ないのだ。もしかすると自分は生命と関わりの無い存在になってしまったのではないかと彼は思う。やがて黄昏の中に石の壁で仕切られた墓地が見えてくる。その門から入ったフレッドが草地にひとつだけ離れて立っている墓石を見つける。墓石を覆った苔をはがすと、下に現れたのは彼自身の名前だった。
 ほんの1分程の間に見たその夢のような幻覚は、ある種の予知夢のようなものであった。その夢のおかげでフレッドは大惨事となった列車事故から逃れられる。事実を知ったフレッドは、幻覚の中で見た墓石の存在を確認するためにふたたび問題の路線の汽車に乗る。

 ベンスンの作品中に何度も現れる、駅に降り立つシーンから始まるというパターンは、たとえばベルギーの画家デルヴォーが繰り返し描いていた駅の光景を思い出させる。思えばベンスンが繰り返し描くシーン、シチュエーションは幻想画家が同じモチーフを描き続けるのと同じような幻惑的既視感(デジャ・ヴ)を引き起こすようだ。
 フレッドが体験談の前に語る、過去と現在と未来は実はひとつのもので、ある種の人間は未来の時間を垣間見ることもできるのだという前置き、そして主人公とフレッドによる予知的幻覚の解釈などは、そのまま20世紀前半頃(この短編集が出版された年は、日本では昭和3年)の超自然現象の解釈に通じるものがあり興味深い。それは現代の私達の超自然観とそう大差はないように思える。超自然、超心理についての解釈はこの7、80年、ほとんど進展していない気がする。
 作品の中の迷宮世界に取り込まれていく暗い幻惑感。それは同傾向の作品「顔」よりもむしろこちらの方が強いかもしれない。ディケンズの名作「信号手」にも似た追い詰められるような悪夢のような不安感を覚える。


■ 神 殿   The Temple
 コーンウォール州の古代の石造遺跡にまつわる怪異譚。
 主人公とその友人フランク・イングルトンは夏の2、3か月をコーンウォール州のセント・キャラドック村で過ごすことにする。フランクはそこにある古代遺跡の調査、主人公は本の執筆を兼ねた夏期休暇である。
 到着から2日後、夕食前の散策で『ペンルートの評議会』というストーン・サークルの近くにある森の中を通った二人は、森を抜けた草地に借家の掲示のある美しい屋敷があるのを見つける。ちょっとした楽園然としたその土地の雰囲気が気に入った二人はホテルを引き払ってその屋敷を借りる。
 屋敷の調度品も申し分無く、母娘の家政婦の面倒までみてもらい、実に快適であった。ただ、家政婦母娘は決してその家に泊まろうとはしなかった。また、夜になると屋敷の向こうの黒い森に何度かパッと輝いては消える明かりが見える。
 翌日、『ペンルートの評議会』ストーン・サークルが評議所であり、それを伴う神殿が近くにあると予測するフランクは主人公と一緒に森の中を散策する。そしてそこに等間隔で並ぶ石柱列を発見した。フランクはこれこそが忘れ去られた神殿の遺跡だと興奮する。石列の円形の中心はどうやら借りている屋敷になるようだ。
 その午後は雷雨となる。主人公は家政婦に屋敷に泊まることを勧めるが、母娘は辞退して雨の中を帰っていった。そして神殿遺跡の縮尺図づくりにとりかかったフランクは台所のテーブル下に花崗岩の石板を見つける。それは生贄台だった。

 このあと、何者かが屋敷の中にいる気配、森の方で動く光、とじわじわと忍び寄ってくる恐怖の前触れが手馴れた筆で描かれる。翌朝、主人公は居間にある本の著者名―サミュエル・タウンウィックという名前を何かの新聞記事で目にしたことを思い出す。心に浮かんだ疑惑を晴らすため、主人公は屋敷を貸し出していた不動産屋を訪ねる。

 研究者を襲う古代オカルティズムの恐怖。オカルト・ホラーの基本形を簡潔に過不足なく抑えている。ショッキングなクライマックスから小説ならではの終末部の余韻へつながる展開の波は、まさに「恐怖の愉楽」を味わえる。太古の時間へとつながるパースペクティヴといい、巻末にふさわしい好短編だ。


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